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ナースが植物と暮らしたら

植物たちに囲まれて魔女のように生きる人の日常

猫も杓子も

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蓮も睡蓮も仏様を連想させる花ですね。

写真は我が家のベランダで咲いた、熱帯性スイレン(ドウベン)です。

あまりわからないけど、花びらの先が淡いブルーで神がかった美しさ。

正午までに閉じてしまう花は、とても良い匂いがします。

 

こんばんは。

先日、ある人に聞かれたんですよ。

本気で死にたいと思ったことはありますか
本気で人を殺したいと思ったことはありますか

って。(おいおい、どんなシチュエーションなんだ? っていうね)

 

答えがどうだったかは置いておいて、私は一つの歌を思い出していました。

生まれては 死ぬなりけり おしなべて

釈迦も達磨も 猫も杓子も

かの有名な、一休宗純の歌です。

 

命あるものいつかは死ぬ。

この歌からは だから今を全力で生きよう とかいう大げさなものを全く感じなくて、死を 当たり前の真理 として扱う潔さを感じます。(つか、室町時代から猫も杓子もって言葉があったのね)

死に無頓着なのも、死に拘りすぎるのも粋じゃない。

だからかつての私は粋じゃなかった。

質問の答えは、ただそれだけかな。

 

だけど、『死』というのは、この世のあらゆる表現者にとって抗いがたい魅力をもったテーマでもあるのよねー。

そして仏教用語である四苦(八苦)のうちの一つの大きな苦でもある。

生と死と病と老い。

苦っていうのは、苦しみじゃなくてままならないこと。

自分の力ではどうにもならないこと。

今の私が望むのは、生も死も、病むことも老いることも、愛も憎しみも、あるがままを受け止められる大きな人間になることでしょうか。

なれっかなー。

 

 

といことで、かつて3歳児だった頃の息子が放った

お母さんの背中、広ーい(*'▽')

という邪気の無い言葉の矢から解き放たれて、大きく生きてまいりたいと思います。

 

 

 

今日のブログは短いね。

次はがんばるー。